押井守的思考法 身体の拡張

生命の本質が遺伝子を介して伝搬する情報だとするなら、社会や文化もまた膨大な記憶システムに他ならないし、都市は巨大な外部記憶装置ってわけだ

映画 イノセンスより


押井守風に考えるなら、パソコンは「私」の身体の拡張に相当する。
ソフトウェア開発の習慣もまた「私」という身体の拡張に相当するだろう。


ソフトウェア開発は他人と共有される記憶システムになる。


押井守風に考えるなら、私やチームや価値やプラクティスの境界はかなり曖昧だ。
タスクカンバンもWikiも日常的なTDDもリファクタリンングも、私の身体の拡張に相当し、かつ、チームメンバの身体の拡張に相当するのだから


実感として、なんとなく、わかる気がする。